38歳「子どもは諦めて」
医師の宣告から始まった妊活
手術、流産、仕事との両立に泣いた日…
6年間の治療ののち44歳で出産
自らの経験を活かし不妊治療者を支援
INTERVIEW
インタビュー
6年間の妊活を経て
不妊経験者を支える
未来への挑戦
38歳、妊活のきっかけは
医師の言葉「子どもは諦めて」
私たち夫婦は、私が28歳、夫が29歳の時に結婚しました。
その後、子どもについて具体的に話すことはなく、親族の看病や仕事に忙しくしているうちに気づけば10年が経っていました。
あるとき、夫がある疾病疑いで緊急入院。
医師からは「治療を進めるならお子さんは今後諦めてもらうかもしれません」と言われました。
それまでは「まだ子どもを作らないの?」と子どもを望む未来に向けた言葉しか言われてこなかったのですが、初めて他人から「諦める」という言葉を言われ、不思議と涙が出てきました。
「泣くってことは、私本当は子どもが欲しいと思っていたのかしら」と初めて自分の気持ちに気がつきました。
幸い夫は疑われた疾病はなく退院しましたが、退院後に夫から「僕は子どもが欲しいと思っているよ」と言われました。
その頃、私も管理職昇格試験が終わり、仕事が一区切りついたと思える時だったので、そういう道もあるのかなと思い妊活を始めることにしました。
妊活をはじめて1年半、
「もう辞めたい」と伝えた私
妊活をはじめるにあたり、まずは病院で検査を受けましたが、不妊の原因となりそうな問題は見つからず、タイミング法からスタートしました。
しかし、半年試してもうまくいかず、その後人工授精を7回行ったところで結果が出ず体外受精に進むことに。
その後転院もしながら何度か体外受精に試みましたが、望む結果は得られず。
40歳を迎えたときに「治療はもう終わりにしたい」と夫に伝えました。
私自身、妊娠は簡単ではないことは理解していましたが、治療をしているしなんとか授かるのでは、という期待もあり、精神的に疲れていました。
夫は「このまま辞めるのではなく一度休憩してみよう」と提案してくれました。
そこからは、思いっきり仕事をし、飲み会にも行き…という生活で、妊活も不妊治療も約1年半弱お休みしました。
精索静脈瘤手術と
再び動き出す妊活
ちょうどその頃、知人から「男性不妊専門の泌尿器科」という存在を聞き、夫が改めて検査を受けることになりました。
その結果、精索静脈瘤が見つかったのです。
私も一緒に病院に行ったのですが、看護師が焦った表情で私のところに来て「ご主人今日手術の予約されてますけど大丈夫ですか?皆さん1回ご自宅に帰って考えてから手術を決められるんですが…」と言われたのを覚えています。
結局その日のうちに手術を受けることを決断しました。術後の経過も良好で、精子所見も改善。これをきっかけに、私も「もう一度、不妊治療をやってみようかな」と思うようになりました。
「春と秋のみ治療」に
決めた理由
以前の妊活では、妊娠できない焦りから治療に没頭しすぎて心身ともに辛かったため、再スタートでは「春と秋だけ通院する」というルールを決めました。
不妊治療では女性側の負担が大きくなりがちです。
猛暑や極寒の早朝・夜間に通院することがストレスになっていたので、少しでも負担を減らしたいと、夫と話し合いの結果決めました。
職種柄、仕事の調整がしやすく、治療については職場に伝えずに続けていました。
そもそも、年齢もあり授からずに終わる確率の方が高いと思い、あえて公表する必要はないと思っていました。
ただ、治療が上手くいかない中、仕事に戻らなければならない時などは「どこで泣けば良いの?」と、人がいない夜のオフィスやトイレで泣いたこともあります。
そんなときは、夫と一緒に呑みながら「私は一人でこんな想いを抱えている」「いつまで続けるつもりなの?」とお酒の力を借りて吐き出させてもらいました。
彼はただ笑って聞いてくれていました。
「これで終わりにしよう」…
覚悟を決めた時に妊娠
その後、体外・顕微受精を6回、胚移植を9回ほど行いました。
一度妊娠反応が出たものの、9週で流産。
さらにその矢先、東日本大震災が起こり、実家が被災。福島まで行き、家の片付けを手伝いながら、「子どもが順調に成長出来なかったのは、このためだったのかもしれない」と考えては、自分の中で整理をつけたりもしていました。
それもあって、「もう授からなくてもいいかもしれない」と思い始めていたんです。
最後の卵を移植するときには「これで終わりにしよう」と覚悟を決めていました。
諦めに近い気持ちだったので、移植後10日くらい病院へ行かずに過ごしてしまいました。でも夫に「一度ちゃんと病院で確認したら?」と言われ、ようやく2週間後に受診したところ「妊娠していますよ」と告げられたんです。
約6年の妊活の末の妊娠でしたが、流産の経験もあってなかなか周囲には言えず、両親を含め周囲への報告は妊娠半年を過ぎてからでした。突然の報告に「え? 誰が妊娠したの?」と戸惑われたのも、今となっては懐かしい思い出です。
Fineとの出会い、そして
コロナ禍でのオンライン相談開始
私がFineの活動に本格的に関わるようになったのは産後からです。
Fineの掲示板には登録していたものの、治療中は正直、積極的に参加していませんでした。
産後ふと「Fineってどうしてるんだろう?」とサイトを覗いてみると、メンバー募集の案内を見つけたんです。「私のスキルでできることがあるなら」と軽い気持ちで応募したのがきっかけでした。
その後、資金調達や行政との連携、協業案件の推進など…多岐にわたる取り組みに関わることになりました。
特に大変だったのはコロナ禍です。
対面で行っていた不妊相談が感染拡大の影響で困難になったのです。
オンライン相談を検討しましたが、「オンラインだと相手の想いを十分に受け取れない」という声もありました。
でもコロナ禍だからこそ人と会えず苦しんでいる当事者がいるはずで、何もしない選択はできませんでした。
最終的には皆で話し合いを重ね、オンライン相談に向けた研修を行い、多くのカウンセラーの理解と協力を得て、オンラインでの相談をスタートすることができました。
過去にとらわれすぎず
「不妊当事者」を支える新たな視点へ
今、新たな取り組みとしてBELTAと共同で高校生向けの「いのちの授業」を行っています。
高校生が大人になったときに知識不足で苦しまないように、という両者の思いが重なった取り組みです。
BELTAは女性にフォーカスしつつも、「人が幸せになるにはどうしたらいいか」を常に敏感に考えている人たちで、これからも一緒に新しいことを生み出していきたいと思っています。
また、Fineとしては設立から20周年を迎え、次のステップに進むため、私たちの在り方を見直しているところです。
社会をどう変えたいのか、「不妊」という言葉が広まりつつある今、改めて団体の目指す方向性、創りたい社会の言語化をしたいと思っています。
これまで「目の前の不妊当事者に寄り添う」ことを大切にしてきたけど、サポートした不妊当事者の人がまた前を向いて立ち上がって…という、当事者同士がエンパワメントされる環境を創りたいよねという声もあがっていたりします。
NPO団体という枠組みや過去にとらわれず、変わらないこともあるけれど、より広い視点で新しいコトを見出す必要もあると感じています。
今後も議論を深める中で、未来に向き合っていきたいと思っています。
——約6年にわたる妊活を経て授かったお子さん。きっと6年間の妊活期間の間には、周囲には言えない悩みを抱え込みつらかった日もあったと思います。その中でも、どうすれば前に進めるのか、と解決策を見つけながらご夫婦で共に不妊治療をされてきた野曽原さん。
改めて不妊経験者にどう向き合うかをひたむきに考え模索しながら進まれている姿が印象的でした。今までも、そしてこれからも不妊経験者を支え続ける野曽原さん、Fineさんのご活動を心から応援しています。
PROFILE
野曽原誉枝(のそはらやすえ)
1968年生まれ。「“不妊”をもっと“普通に話せること”に」を掲げ、現在・過去・未来の不妊体験者を支援するNPO法人Fineの理事長。大手電機メーカーにて22年間、販売促進や企画職に従事する。約6年の不妊治療を経て出産したのち、NPO法人Fineに参画し2014年に理事に、2022年理事長に就任。資金調達や新規事業推進、行政との協業案件推進などを担う。2015年には自身の子育ての経験から産後の父母をサポートする産後ドゥーラ事業「アリレーヴ」を立ち上げ、現在では「不妊」「産後ケア」と幅広い領域において女性をサポートする活動を行っている。
NPO法人Fine:
https://j-fine.jp/
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